寄稿 〜橋本さんのエッセイの紹介〜

橋本さんのエッセイ

私の温泉考

                        橋本 幹男

  風呂!、日本人にとっては欠くことのできない「癒し」の原点。
夜遅くまでの残業、電車を乗り継いでたどり着いた郊外の我家、肉体も精神も疲れ切り、浴槽に身体を浸けた時の湯の暖かさ、

 たまの休日、久し振りに家族でススキのなびく野山ハイキング、
今日こそはと子供へのサービスで思い切りはしゃぎ、陽の傾く頃、麓の村の共同湯へ、疲れきったふくらはぎが軽くなる、、、

 何年かぶりの宿泊旅行、仕事の憂さを晴らす放吟飲酒、語り尽くし、同部屋の仲間との麻雀からのがれ、誰もいない深夜の静寂の浴場、思いのほか熱い湯に浸かると身体に染み付いたアルコールが抜けて行くような心地よさ、
風呂:湯 そしてそれが「温泉」であれば癒しはさらにも高まる、そう信じ私がこれまで体験した「私の温泉考」を少しばかり、、、

 日本人にとってたまの休日、湯煙たなびく温泉に出かけ日々の疲れを癒す行動は江戸時代以前の昔から生活の中に自然に溶け込んでおり、
特に農閑期の農民には「なくてはならない」と考えられて来た。
最近、以前にも増して生活の節目で多くの人々が温泉を楽しんでいる。ところがこの温泉が水で薄められたり、他温泉の粉末を入れたり、最悪なのはそのお湯を循環、再利用している現状が報告されている。特に循環した場合、温泉とは全く別のもの、即ち温泉の成分はまったく無くなる。つまりは塩素付けの単なる温かいお湯になる。この細菌を滅菌する塩素でお湯の効能は全く無いに等しいものになり、そして本来の温泉の香りどころかまるでプールなみの塩素臭がする。ところが若しこれと逆に塩素の含有率を減らすと恐ろしいことになる。以前、新聞で読んだ方もおられよう、2000年の浜松ヤマハリゾートの死者2 名、患者20名余り、茨城県石岡市の市営福祉施設で死者3 名、患者40名強の大規模な事件を。これらは循環湯の中で異常に増加したレジオネラ菌による肺炎他の症状で死亡、感染したと報告されている。
温泉に保養、病の治療に来たのに逆に病気になるという信じられない悲劇を招いているのである。

 全国で約3000箇所あるという温泉地、1 万5千を越すと言われている旅館、ホテル、この中で所謂、「源泉かけ流し」の温泉は1 〜1.5 割しか存在しないと言われている。この「源泉かけ流し」と言うキーワードが本来の温泉そのものであり、それ以外はいわば温湯:温かいお湯 というべきであろう。
 「源泉かけ流し」は源泉から引いてきた湯、若しくは源泉がそのまま浴槽に入り、余った湯は洗い場に溢れ出て全く再利用されずに流れ失せる。即ち温泉でないものを温めたり、温泉を水で薄めたり、他温泉の粉末を加えたりしないものを指す。
ましてや一度や数度使ったお湯を戻し、濾過器で濾して塩素殺菌し、垢やごみを取って一見には真水のごとく見せている、、、このような循環、再利用のものを指さないのは言うまでもない。

 このお湯の再利用が何も知らない人々を騙していると言っても言い過ぎでないのではなかろうか? 少なくとも当該施設が「温泉」、「天然温泉」とうたっている場合、多くの人は所謂、源泉をイメージしていると思われる。これらは国が定めている温泉法の定義があいまいなことに起因しているからであり、この温泉法の概要だが温度が25℃以上あって鉄イオン、硫黄等で示される18種の成分のうちの一つでもその基準量を超えていれば良く、この条件を満足していれば 温泉」のお墨付きが貰える。従って極端に言えば他所の温泉を持ち込んで加えても差し支えない訳であり、お湯を循環しようがしてなかろうが全て「温泉」とみなされる。一方、温泉成分は脱衣場等に額に入って掲げてある「温泉分析書」で示されるが、これが新しいならまだしも年を経るごと湧出量、質も変わることがあり、20〜30年以前の分析書と現在の内容では相違があることも十分考えられる。

 さて最近、郊外をドライブすると道の駅や町村営の公共施設等に併設した温泉施設、スパランド的な真新しい施設が増えてきているのを感じられるだろう。日帰り温泉として多くの人に重宝がられているが、残念なことに一部を除き、これらに掛け流し温泉が少ないといわれている。建物、食堂・売店設備等に金をかけてドライバーを誘っているようだ。もともと温泉の湧出量の少ない場所、出ない場所では循環湯が多く、また最近流行の地下1000m近くから低温のお湯を引いてきて暖めなおしたりしているのが実情だろう。しかしこれらの新型施設のお陰で交通不便な山奥で(矢張り山奥の方が良好な温泉が多い)地道に温泉旅館を営んでいる弱小温泉場、温泉旅館、民宿の経営が脅かされているも事実だろう。

 本来のお湯の品質を守るため、お湯にそのコストをかけている温泉とそれ以外の温泉では明らかに方向性が違うのである。所謂、有名温泉場(熱海とか有馬とか)でも温泉量は豊富であろうが、数十年前に顕著だった新規参入旅館の増加、同業との競争で浴槽を大規模化したりしてお湯の絶対量が不足したのであろう。
これら自前の源泉を持っていた旅館も湯量が不足、あるいは元々、自身の源泉を持っていない温泉施設は源泉から分湯してもらうが、そのコスト負担は相当なもので、その解決法はお湯を循環させることによるコストセーブ、それがひいては浴場、浴槽の清掃コストをも軽減させる効果も得られるから良心的でない施設は、得てしてその方向に流れるのであろう。顧客誘導の為、建物、付属設備に金をかけ、肝心の温泉は循環湯でお茶を濁している温泉旅館がごまんとあるのが現状である。

 勿論、温泉(場)好きの人でお湯の品質に拘らない人々、例えば設備が粗末で交通不便な山奥の温泉よりも、交通至便、デラックスな建物、きらびやかな大浴場を好む方もおられよう。源泉でなくとも温かいお湯が広い浴槽に溢れてさえいれば、効能がなくても良い、温泉粉末が入っていても気にしない、、、と言う方には、それはそれで温泉場の楽しみ方かも知れぬ。しかし、源泉の湯量が少ないから、或いは毎日の清掃が大変だからというコスト意識本位で、お湯を循環再利用させている温泉施設。それが「天然温泉!」と表記し営業することで、何も知らされていない温泉客が「温泉」の二文字で訪れるなら、そこにこそ問題があると言えよう。少なくともそういう施設が「温泉」という文字を使っているからである。

 以上のように、問題提起したが以前は私自身も無知であった。10年弱前に、これらの内情を知るに及び、黙ってはいられなくなって来た。 もともと温泉好きの私は、ドライブがてらに手当たり次第に街道沿いの温泉に浸かり、悦に入っていたのも事実である。確かに広い風呂場は、子供に歓声を挙げさせるに十分な魅力を持っており、それも、村おこしかなんかで立派な建物は心地よく感じた。ジェットバス、ジャグジー、打たせ湯、何でもありのスパランド、湯上りには身体を休め、土地のお新香をあてにビールでも飲めば全てが解決したような、、。

 しかしどこかおかしいことに気づき始めた。山奥の村の鄙びた共同湯とメインストリート沿いに立派な駐車場付きのきらびやかな建物、どうもお湯自体が違うのではないか? スパランドで泡沫風呂に入る、何か変な匂いがする。打たせ湯を頭で受ける、確かにリフレッシュできそうだが、なんかへんな臭気が残る。

 そんな疑問を持っていた時、毎年恒例で行く苗場で全てが解決した。苗場から越後湯沢まで続く17号線沿いの街道は、冬のスキーで有名だが小さな温泉が国道17号線沿いに数件ありスキー客、ハイカーなどが頻繁に利用し、なかなか捨てがたい魅力を持つ場所である。

 その苗場に「美人の湯」と言う看板を掲げ、国道沿いの入口付近にこれ見よがしに、噴泉を出している旅館が気になっていた。名前に気おされて暫し利用をためらっていたが7 年ほど前、敷地に踏み入れたら既に旅館は廃業状態、温泉業だけで営業している。
 玄関には「これぞまさしく! 天然温泉、100 %天然温泉!!等々、、」の但し書き、しかし客は我々だけで閑散としていた。そこで湯に入る。湯口からは元気良く湯がほとばしり、あふれた湯がそのまま洗い場へ、もちろん掛け流し、首まで浸かると少しして身体がチクチクする感じ、上がってほてりを冷ましていると、そこの主人が出てきて、「お客さん、如何でしたかこの湯?」、当時は天然温泉と非天然温泉の違いなんか良く分からず「お湯のパワーに圧倒された」と答えると、わが意を得たりとばかりに演説が始まった。曰く、この天然温泉を掘るのに何十年もかかり(その間に旅館への投資が、おろそかになり旅館は廃業??)、最近ようやく掘り当てた。自分だけでは勿体無いので、広くお客さんに使ってもらおうと、そして天然と非天然、循環温泉、うすめた温泉との違いを知って貰おうと、、そしてまやかしものの温泉は国内の温泉の8割以上もある!等と教わり、半信半疑で聞き返す当方に15分程度も説明を、、これがそもそもの始まりだった。
後日、息子のこの件を話すと「そういえばスノーボードを朝から晩までやって、腰も立たない位、ヘロヘロになった時、あの温泉に入ると、なぜか浴後は筋肉痛がすっかり無くなった」と言うではないか、やっぱり!!、との確証を得た。

さあそれ以後、ドライブ前には、源泉かけ流しの温泉を事前調査する癖がついた。すると、そういう場所は、大温泉場の奥の未舗装路を1時間以上も上っていったり、更に車を乗り捨てて更に1時間近くも徒歩で山道を歩かなくてはならない場所もある。しかし、苦労してたどりついた露天風呂では格別の癒しが待っている。一番好きな硫黄臭のする白濁湯としては群馬県の万座、草津から白骨、網張・・・・更には、真っ赤な鉄分の新潟県の赤湯、伊豆は下田の奥のぬるぬるのアルカリ湯等、色々行って分かったことは、良い温泉場は固まって存在しているのだ。
 例えば新潟と長野県境の秋山郷は、車で30分以内に数箇所の違う泉質の温泉場が存在している。最近行った阿寒湖の付近にも素晴らしい温泉がごまんとある。これからも掛け流しを求めて全国をドライブすることが誠に楽しみである。

 さて私なりの掛け流しと循環湯との見極め方は以下の3 点である。

1.浴槽から溢れたお湯が洗い場に流れず、また喫水線が湯船の縁以下→循環湯、これはどこかでお湯を吸い込んで循環させている。なかには二段構えで縁があり、内側の縁から溢れさせて見せ、外側に流れ出たお湯を取水し、再利用させているのもある。
2.湯口から同じ様な勢いで多量に流れている→殆ど循環湯、お湯が非常に豊富な温泉場の湯元の温泉旅館なら理解できるが、分湯されている温泉旅館にそんなに多量なお湯があるはずない。お湯のコストは相当高いのである。天然湯の湯の流れ方は、意外に変化しており、多量の一定量では流れないのが普通といえる。
3.湯口に湯呑み、コップ類が置いてあり「飲泉」できる→掛け流し、いくらなんでも循環湯では、客にそのお湯は飲ませられない。

・付録
 このように日本人にとって、入浴は日々の生活に深く入り込んでおり、西洋人の様に浅いバスタブに突っ立って、ただ汗を流すだけの機能的なシャワーの世界とは、全くその目的からして相違する。ましてや最近、ビジネスホテルでもあるまいに自宅で「癒しの浴槽」と「排泄目的の便器」が同居する間取り等は論外、と考える。                    このページのトップへ