岩国・笠戸島・湯田温泉・萩・秋吉台の旅行記
萩を観光
萩では、松下村塾、松陰神社、伊藤博文旧宅と別邸、吉田松陰誕生地と墓地、城下町を散策した。その後、秋吉台のカルストロードをドライブして、北九州空港に向かった。
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吉田松陰は、1857年(安政4年)年出獄して、杉家に幽閉中、叔父玉木文之進の松下村塾を引き継ぎ、安政の大獄により29歳で刑死するまでの2年半、若き門下へ新しき日本を拓く実践の道を熱く説きました。当時、吉田松陰28歳の若き師は、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、山県有朋など幕末から維新にかけて光彩を放つ人材を育成しました。この松下村塾は、杉家の物置小屋を改築したもので、質素な小さな建物です。藩が作った学校である明倫館へ入学できないような下級武士の子弟が多く学んだことも有名な話です。明治維新は、師の構想を実現するために、戦った弟子の歴史です。その原点がここ松下村塾にあります。(萩本陣 サイトより)
この竹は横走地下茎が発達せず、横にはびこらず、親竹の周りにのみ竹の子が育つ。したがって、親を守る竹という意味で孝行竹という。松陰先生は親孝行であり竹を愛した記録もあり、記念として寄贈された。(説明版より)
1854年(安政元年)父が家族を連れて、萩藩の中間、水井武兵衛(伊藤直右衛門)の養子となり、この家に住むことになりました。博文14歳の時でした。博文が17歳の時に近くの松下村塾に通って吉田松陰の教えをうけ、尊皇攘夷運動の志士として活躍しました。28歳の明治元年、兵庫県知事に赴任するまでの14年の間ここを本拠としました。
その後、明治憲法制定の任にあたってその功を遂げ、初代内閣総理大臣、枢密院議長、貴族院議長に就任するなど政府の要職を歴任しました。
内閣を組織すること4次、明治の元勲といわれ、政府の最高指導者となりましたが、明治42年69歳、ハルピン駅頭で凶弾に倒れました。旧宅の隣が別邸です。(萩本陣 サイトより)
ここは、拝観しなかった。外から眺めた。
鍵曲とは、道を鍵の手に曲げった城下町特有の街路で別名「追廻し筋」とも呼ばれています。口羽家住宅そばの鍵曲は往時の趣をとどめるために歴史的景観に配慮し、江戸時代の街路をイメージした舗装をしています。(「萩を歩く」パンフレットより)
北九州空港で、18時30分のSFJ 88便に乗り、羽田に19時55分に到着した。
小学校の同窓会の後の1泊旅行だったが、Shige がスケジュールを作り、かつドラバーまでしてもらったので、短い時間で沢山な観光ができた。大変有意義な旅行だった。Shige お疲れさまでした。
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マップ
観光した場所をポイントしています。ご覧ください。より大きな地図で 岩国・笠戸島・湯田温泉・萩・秋吉台 を表示
歴史のまち 萩を歩く
萩を観光するのに、この地図は参考になります。(萩本陣 サイトより)松下村塾(しょうかそんじゅく)・松陰神社
松陰神社の松の茂る清浄な境内を進むと、吉田松陰歴史館等をすぎると、左手に「松下村塾」があります。吉田松陰は、1857年(安政4年)年出獄して、杉家に幽閉中、叔父玉木文之進の松下村塾を引き継ぎ、安政の大獄により29歳で刑死するまでの2年半、若き門下へ新しき日本を拓く実践の道を熱く説きました。当時、吉田松陰28歳の若き師は、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、山県有朋など幕末から維新にかけて光彩を放つ人材を育成しました。この松下村塾は、杉家の物置小屋を改築したもので、質素な小さな建物です。藩が作った学校である明倫館へ入学できないような下級武士の子弟が多く学んだことも有名な話です。明治維新は、師の構想を実現するために、戦った弟子の歴史です。その原点がここ松下村塾にあります。(萩本陣 サイトより)
松下村塾 | |
当初からあった八畳の一室 | 講義室 |
松陰神社の鳥居 | 神社の前で記念撮影中 |
明治維新胎動の地 |
孝行竹
蓮菜竹(漢名ー観音竹ー孝順竹)、インドシナ原産。株張り竹の一種。この竹は横走地下茎が発達せず、横にはびこらず、親竹の周りにのみ竹の子が育つ。したがって、親を守る竹という意味で孝行竹という。松陰先生は親孝行であり竹を愛した記録もあり、記念として寄贈された。(説明版より)
孝行竹 | |
孝行竹と皇太子・皇太子妃殿下の行幸啓と天皇皇后陛陛下の行幸啓と松下村塾 |
伊藤博文旧宅と別邸
伊藤博文は、1841年9月2日(天保12)、当時の周防の国熊毛郡束荷村、今の熊毛郡大和町で、百姓林十蔵、母琴子の長男として生まれました。1854年(安政元年)父が家族を連れて、萩藩の中間、水井武兵衛(伊藤直右衛門)の養子となり、この家に住むことになりました。博文14歳の時でした。博文が17歳の時に近くの松下村塾に通って吉田松陰の教えをうけ、尊皇攘夷運動の志士として活躍しました。28歳の明治元年、兵庫県知事に赴任するまでの14年の間ここを本拠としました。
その後、明治憲法制定の任にあたってその功を遂げ、初代内閣総理大臣、枢密院議長、貴族院議長に就任するなど政府の要職を歴任しました。
内閣を組織すること4次、明治の元勲といわれ、政府の最高指導者となりましたが、明治42年69歳、ハルピン駅頭で凶弾に倒れました。旧宅の隣が別邸です。(萩本陣 サイトより)
伊藤博文像 | 旧宅と別宅 |
吉田松陰誕生地ならびに墓地
ここは団子岩と言われる風光明媚な所です。ここから萩城跡のある「指月山」を正面に市街が一望できます。右手には、宿泊された「萩本陣」と「吾妻山」が木の枝の間に見えます。 現在は、建物の敷石と松陰産湯の井戸が残っています。その東側に、吉田松陰と金子重輔の師弟が、下田沖の米艦を見つめる姿の銅像があります。隣の墓地には、松陰をはじめ高杉晋作、久坂玄瑞など維新で活躍した人々の墓もあります。吉田松陰の墓には、表に「松陰二十一回猛士墓」、裏に「姓吉田氏称寅次郎安政六年巳未十月二十七日」と刻まれています。(萩本陣 サイトより)下田沖の米艦を見つめる姿の銅像 | |
吉田松陰の墓 | 高杉晋作の墓 |
団子岩から萩市街を一望! 正面に小さく見えるのが「指月山?」 右手に見えるのが「吾妻山?」 |
東光寺
毛利家(3代以降の奇数代藩主)の菩提寺です。かつては、堂塔40棟、僧80人という大寺院でした。現在は、総門、三門、大推宝殿、鐘楼が名残をとどめて、いずれも国の重要文化財です。圧巻は、藩主の墓前に家臣達が寄進した役500基の石灯籠です。毎年8月15日には、送り火として開かれる万灯会はその全ての灯籠に灯が入れられ、幻想的な雰囲気となります。(萩本陣 サイトより)ここは、拝観しなかった。外から眺めた。
どちらが総門?山門? |
昼はウニ丼を食べる
昼は、インターネットで調べて、萩市吉田町59 にある「竹とんぼ」で、「陶板焼きそば(瓦そば)」の予定にしていたが、店が休みだったので、近くの店で「ウニ丼」を食べた。昼はウニ丼を食べる! ウにが一杯! |
城下町散策
萩の城下町を散策していると、萩八景遊覧船乗り場を見つけた。約40分の遊覧船のコースは、萩城跡横の指月橋をスタートし、堀内伝統的建造物群保存地区を眺めながら、橋本川へ。橋本川に入ると、常盤島と「釣りバカ日誌12」の舞台となった屋敷に挟まれた松並木をくぐりながら、平安古松原を横目に、白壁が続く平安古伝統的建造物保存地区の旧田中別邸へ。田中別邸先でUターンして萩八景のひとつ玉江の美しい景観を眺めます。( ぶらり萩あるき 萩市観光協会公式サイトより)遊覧船のコース(萩市観光協会公式サイトより) | |
萩八景遊覧船乗り場は、萩城址入口の橋の辺りにある。 この川は、橋本川と日本海側にある菊ケ浜海水浴場に 通じる運河である。 |
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船乗り場から橋本川に入る少し進むと、新堀川に架かる平安橋が見える | |
白壁の広大な武家屋敷跡 | |
第26代内閣総理大臣の田中義一別宅 | |
旧田中角英別邸先でUターン、玉江橋と面景山(253m)を望む | |
常磐橋と常磐島 | |
運河に入るとき、遊覧船が橋本川に入ってきた! | |
普門院橋をくぐるときは、船の屋根が低くなります! | |
指月山(143m)と萩城跡、城壁に□窓が見えますか、 ここから鉄砲を撃ったそうです! |
鍵曲(かいまがり)
遊覧船観光が終わり、駐車場に戻る途中で、鍵曲を通った。鍵曲とは、道を鍵の手に曲げった城下町特有の街路で別名「追廻し筋」とも呼ばれています。口羽家住宅そばの鍵曲は往時の趣をとどめるために歴史的景観に配慮し、江戸時代の街路をイメージした舗装をしています。(「萩を歩く」パンフレットより)
口羽家住宅そばの鍵曲 |
秋吉台カルストロードをドライブ
萩の観光を終えて、秋吉台のカルストロードをドライブして、美弥ICから高速道路に乗り、関門大橋を渡って、北九州空港に向かった。秋吉台カルストロードを走る | |
関門大橋を走る |
北九州空港で、18時30分のSFJ 88便に乗り、羽田に19時55分に到着した。
小学校の同窓会の後の1泊旅行だったが、Shige がスケジュールを作り、かつドラバーまでしてもらったので、短い時間で沢山な観光ができた。大変有意義な旅行だった。Shige お疲れさまでした。
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(旅行日 2011.11.26-27)