善光寺御開帳とは何か
善光寺の御開帳とは何か? 簡単にまとめた。 どんなものか、一度見てみようと思った。バスツアーで出かけた。ツアーの様子は、こちらをご覧ください。
無宗派の善光寺
![]() それは、善光寺が三国伝来の日本で初めての仏様を本尊とし、日本仏教の根源であると考えられてきたためです。 つまり、日本に仏教の宗派が生まれる以前に善光寺が創建されたことに大きく関係するようです。善光寺は極楽浄土の入り口、一生に一度訪れれば、往生がかなうと信じられています。そして、善光寺は、宗派、男女、貴賤を問わない、無差別、平等のお寺なのです。だからこそ、全国から参拝者が毎年大勢訪れる日本を代表するお寺の1つであると言えます。(信州善光寺参りより) |
善光寺縁起
善光寺縁起とは、善光寺の成り立ちを物語としてまとめたもの。「遠くとも一度は詣れ善光寺」といわれ、宗派を超えて全国の老若男女の信仰を集める善光寺。その由来を伝える「善光寺縁起」をひもとけば…。
その昔、大竺(インド)のこと。娘の如是姫の病気を阿弥陀如来に救ってもらった月蓋歴者は、それまでの不信心を改心し、深く仏教に帰依。如来の姿をこの世にとどめ、終生お仕えしたいという長者の願いに応じて、釈尊と阿弥陀
如来は竜宮の閻浮檀金によって阿弥陀如来と寸分違わぬ姿の一光三尊阿弥陀如来を出現させました。長者が亡くなった後、この如来は百済こ渡り、聖明王のもとで手厚く祀られました。その後、仏教伝来とともに日本に献じられ、いったんは宮中に迎えられましたが、仏教を日本に受け人れるか否かの争いの中、如来は物部氏によって難波の堀江に捨てられてしまいます。ある時、信濃の住入本田善光が堀江を通りかかると、如来に呼び止められます。「おまえは天竺の月蓋長者、百済の聖明王の生まれ変わりである」。すべてを悟った善光は如来を背賃って故郷へ持ち帰り、自宅に手厚く
お祀りしたのが善光寺の始まりであると語られています。(善光寺縁起より)
そもそも善光寺とは、本田善光さんのお寺という意味で、善光の寺から善光寺の名がきていると言われています。善光寺本堂の瑠璃壇・ご本尊の右隣に御三卿(本田善光卿を中心に、向かって右に奥様の弥生御前、左は息子の善佐卿)をお祀りしています。
善光寺前立本尊(ぜんこうじまえたちほんぞん)
![]() 前立本尊は、ひとつの光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並ぶ、善光寺独特の一光三尊阿弥陀如来のお姿をされています。普段は御宝庫に安置されていますが、七年に一度の御開帳の時だけ、特別にお姿を拝むごとが叶います。 |
善光寺御開帳
数え年で7年に一度(現在は丑と未の年)、秘仏である御本尊様のお身代わりとして、まったく同じお姿の「前立本尊」様を本堂にお遷しして全国の人々にお参りいただく盛儀です。本堂の前に「回向柱(えこうばしら)」が立てられます。「前立本尊」の中央の阿弥陀如来の右手に結ばれた金糸は五色の糸にかわり、白い善の綱として、本堂前の回向柱に結ばれます。その回向柱に触れることは、前立本尊に触れるのと同じこと。ここにありがたい結縁が生まれ、その功徳ははかりしれません。
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白い善の綱が見えますか? |
回向柱(えこうばしら)
御開帳中、本堂の前に建つ高さ10メートルの回向柱は、現在の本堂建立の際、徳川幕府の命令により松代藩が普請奉行に務めた縁から、毎回松代町から「回向柱」が奉納され、本堂前に建てられます。
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善光寺は、天台宗の大勧進と浄土宗の大本願の2つの宗派によって管理・運営されているが、いずれの宗派にも属さずすべての人が参りできるお寺。 如来を背賃って故郷へ持ち帰った本田善光の名前が付いた寺。秘仏である御本尊様のお身代わりとして、まったく同じお姿の「前立本尊」様を7年に御開帳する。そして、本堂の前に回向柱を建て前立本尊様と白い善の綱で結ぶ。その回向柱に触れることで、前立本尊に触ったことになる。なかなか面白いですね。ただ、絶対秘仏の御本尊様は、瑠璃壇に安置されているのだろうか?
善光寺の御開帳をバスツアーで見てきた。ツアーの様子は、こちらをご覧ください。