クラス会 倉工電通3期会 〜皇居東御苑他散策〜

倉工電通3期会 〜皇居東御苑他散策〜

 平成21年の忘年会の終わりに、TA氏が3月頃に計画を立てるので、御期待下さい。と言って分かれた。その後、2月16日にメールが届いた。「取りあえず、3月20日。東京駅丸の北口JR改札口に10時集合」のことであった。明日その日が来るが、TA氏からその後何も連絡が無かった。連絡が無いことは、変更なしで計画通り実行するのなだな。と思ったが、ちょっと気になって、「本当に3月20日は、10時に集合するのか」とメールを出した。21時過ぎにTA氏から、「明日楽しみにしています。」の返事が届いた。
 丸の内JR北口改札には、すでにTA氏がいた。定刻通り、O氏とA氏も到着した。今回は、4人のツワーだった。

先ずは、
 皇居東御苑散策→楠正成像を観て→楠公レストランハウスで朝食。
その後、新橋に移動して、電通本社ビルの46階から東京湾を展望する。そして、浜離宮恩賜庭園を散策→水上バスで、浅草へ。浅草寺をお参りして、浅草「うなぎ小柳」で小宴会。お土産に神谷バーで、デンキブランを買って解散した。移動範囲は、マップを参照願います。

マップ


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皇居東御苑散策

 東京駅から、先ず皇居東御苑の入り口である「大手門」に向かう。
この東御苑は、皇居造営の一環として、昭和35年1月29日の閣議決定に基づき、皇居東地区の旧江戸城本丸、二の丸および三の丸の一部を皇居附属庭園として整備することとなり、昭和36年に着工し、昭和43年9月に完成したもので、面積約21万uの庭園です。昭和43年10月1日から宮中行事に支障のない限り一般に公開されています(皇居東御苑ガイドマップより)。

 何せ、皇居辺りに行ったのは、高校生時代の修学旅行と、30数年間の新年一般参賀以来だ。今回、TA氏の計画でこの東御苑を散策した。ガイドマップにあったように、面積約21万u。東京のど真ん中にこんな空間があるとはビックリする限りです。東御苑外は、建ち並ぶビル、ビルを縫って走り廻る車で落ち着いておれない。東御苑に入ると、遮るものがない、 静寂で空気も澄んでいて別世界のようだ。皇居東御苑マップで全体をご覧ください。

皇居東御苑マップ

大手門から入城

 大手門から入城して、発売券所で、入場券を受け取る。御苑から出るときは、この券を戻さなければならないので、失くさないように注意しよう。

大手門の前で (マップ30番辺り)

三の丸尚蔵館

 三の丸尚蔵館は,皇室に代々受け継がれた絵画・書・工芸品などの美術品類が平成元年6月,国に寄贈されたのを機に,これら美術品を環境の整った施設で大切に保存・管理するとともに,調査・研究を行い,併せて一般にも展示公開することを目的として,平成4年9月に皇居東御苑内に建設され,翌年11月3日に開館しました(宮内庁HPより)。
  この日は、御成婚50年・御即位20年記念特別展「両陛下−想い出と絆の品々」が展示されていました。

三の丸尚蔵館 (マップ29番)

同心番所

 「番所」とは、警備の詰所のことで、百人番所、大番所とこの同心番所の3つが残っています。 城の奥の番所ほど、位の上の役人が詰めていました。ここには同心が詰め、主として、登城する大名の供の監視に当たっていました(説明版より)。

同心番所 (マップ13番)

百人番所

 本丸と二の丸へ通じる要所である大手三之門の前に設けられた番所です。鉄砲百人組と呼ばれた、古賀組、伊賀組、根来組、 二十五騎組の4組が昼夜交代で詰めていました。各組に同心が100人ずつ配属されていました(説明版より)。

百人番所 (マップ14番)
二の丸方向を眺める (マップ14番辺りから)
本丸の入り口を眺める (マップ14番辺りから)

大番所

 「番所」とは、警備の詰所のことで、百人番所、同心番所とこの大番所の3つが残っています。 中之門の側に設けられ、他の番所よりも位に高い与力・同心によって警備されていました。前の坂を上がったところが本丸の入り口で、中雀門がありました(説明版より)。

大番所 (マップ11番)

松の大廊下跡

 赤穂浪士仇討ち入りにつながったことで知られる、浅野内匠頭長矩の吉良上野義央への刃傷事件(1701年(元禄14年))のあったところです。 廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来といわれています。江戸城中で2番目に長い廊下で、畳敷きの立派なものでした(説明版より)。

松の大廊下跡 (マップ4番)

天守台

 最初の天守閣は、1607年、二代将軍秀忠の代に完成しましたが、その後大修築され、1638年、三代将軍家光の代に、江戸幕府の権威を象徴する国内で最も大きな天守閣が完成しました。 外観5層、内部6階で、地上からの高さは58メートルありました。しかし、わずか19年後の1657年、明暦の大火事(振り袖火事)で、飛び日により全焼し、 以後は再建されませんでした(説明版より)。

天守台 (マップ16番)

江戸城本丸御殿

 この天守台から見える大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が立ち並んでいました。本丸御殿は、表、中奥、大奥という三つの空間に分かれていました。
 表には、将軍の謁見などの公的な儀式、行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥は将軍の日常生活、政務を執る場、大奥は御台所と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場でした(説明版より)。

江戸城本丸御殿 (天守台から見るとこんな風景だった)
江戸城本丸御殿 (今はこんな様子です)

桃華楽堂

 香淳皇后の還暦を記念して建てられた音楽堂で、1966年(昭和41年)に完成しました。八角の建物で、屋根は、テッセンの花弁を形どっています。 八つある壁面は各面とも大きく羽ばたく鳥を中央に、それぞれ日月星、松竹梅、楽の音などをイメージした図柄が陶片で描かれています。香淳皇后のお印の 「桃」にちなんで命名されました(説明版より)。城跡にはモダンすぎると思うのですが、中を見ていないので、何とも言えません。

桃華楽堂 (マップ18番)

梅林坂

 梅林坂は、本丸と二の丸を結ぶ坂です。文明10年(1478年)太田道灌がt天神社をまつり、数百株の梅を植えたので梅林坂の名がついたといわれています。現在は約50本の紅白の梅が植えられており、12月末から2月まで花が楽しめます(説明版より)。我々が行った時は、花は終わっていた。

梅林坂 (マップ20番)

都道府県の木

 昭和43年(1969)の皇居東御苑公開に際し、都道府県から寄贈された各「都道府県の木」が植えられました。また、沖縄県の木は本渡復帰した昭和47年(1972)に植樹されました。現在31樹種の木々が植えられています(説明版より)。一か所で、各都道府県の木が見ることができて、面白い。

都道府県の木 (マップ23番)

諏訪の茶屋

 諏訪の茶屋は、江戸時代には吹上地区(現在御所等のある一帯)にありました。この建物は、明治45年に再建されたもので、明治期の茶室風の建物として優雅な外観をもっているため、皇居東御苑の整備に当たりここにう移されました(説明版より)。

諏訪の茶屋 (マップ23番)

二の丸庭園

 二の丸庭園は、小堀遠州作の回遊式庭園を復元した日本庭園。なんとなく落ち着きます。

二の丸庭園 (マップ25番)

 皇居東御苑を後にして、楠正成像に向かう。濠を境に現実の戻る。なんと素晴らしい空間だった。

濠を境に現実に戻る

楠正成像

 内堀通りを二重橋前まで進み、皇居外苑の日比谷濠辺りに楠正成像がある。銅像の高さ、約4メートル。台座部分まで、約8メートル。我が国初めての分解鋳造の銅像。
 鎌倉幕府の倒幕、建武新政発足のきっかけとなる戦乱などで活躍した人で、御醍醐天皇を酔後擁護し、 後に室町幕府を築いた足利尊氏軍との湊川の戦い(延元元年・1336年、現・神戸市兵庫区)に敗れ、自刃したと言われています。御醍醐天皇に忠節を尽くし、 勇猛果敢に戦った誉れ高い武将として知られています。

楠正成像 (前から)
楠正成像 (後ろから)

 楠正成銅像は、明治23年(1980年)に、住友家が伊予国(現・愛媛県)の別子銅山の開坑200年を記念して、皇室に銅像の献上を願い出、認められたものです。 銅像は、高村光雲など東京美術学校(現・東京藝術大学)の教授や学生が6年の歳月をかけて明治29年に完成したものですが、現在の位置に設置されたのは10年後の明治33年のことです((財)国民公園協会 皇居外苑のチラシより)。

 力強い銅像です。この像のすぐ傍にある楠公レストランで昼食をした。一休みして、地下鉄で、新橋に移動した。次は、浜離宮恩賜庭園を散策する。

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