クラス会 倉工電通3期会
倉工電通3期会とは
倉工電通3期会とは、福岡県立小倉工業高等学校の電気通信科を昭和34年3月に卒業し、関東地域で生活をしている者の集いの会のことである。3期とは、電気通信科ができて、3期生をいう。当時電気通信科の卒業生は50人いた。そのうち5人が永眠した。この同期生の中で関東地域に当初9人いた。そのうち1人は、平成17年8月に永眠した。もう一人は、平成12年に四国に帰郷した。現在7人が関東地域で頑張っている。早いもので我々は65歳を超えてしまった。これを機に今までの集いを整理した。 校 歌 作 詞 池田 龍太 作 詞 大石 正寿 一、北九州の活天地 文化の春にめぐまれて 希望にもゆる健男児 標識をいかに人は見る 二、落とし来れる天柱の 槌に飛び散る虹の花 鍛えて堅き黒がねの 意地の力をためすべく |
三、空を劈くいなずまの 秘密を奪う動力を 正義に勇む糧として 向上の路たどるべく 四、ああ玄海の浪に聞け ああ鎮西の山にも見よ 自然の大を師と呼びて 意志天を衝く大丈夫を |
小倉工業高等学校は、平成11年10月に創立100周年記念行事が行われた。その一つとして、校章の規格が制定された。その概要を記す。(小倉工業高等学校北辰会会報の紙面を参照した。)
校章の由来について、学校開校当初、校章も帽章もないので、在校生に呼びかけ、色々な案が出て第一期生の水田益二(明治35年機械科卒)先生がまとめられたと伝えられいます。 校章の構成は、@工業の工の字の部分、A桜の花の部分、B工の字と中央の剣と結びの部分、からなっています。 @工業の工の字の部分 「工」の字のままだと四角ばった「工」になるし、丸みを持たせれば温厚、円満、穏やかになる。その切断面は鉄道の線路のようで、いつまでも、どこまでも続く線路、世界の隅々届く線路、そんな線路にかけて、小倉工業がどこまでも続くように思いをこめていると言われます。 A桜の花の部分 現在は、桜の花だけだが、初めに描かれた原案には「右近の橘、左近の桜」で、宮廷の紫宸殿のようになっており、小倉工業を守ってほしいという意味があったと言います。 B工の字と中央の剣と結びの部分 工の字の中央部分は帯のようになっていて、これは絆で団結を表します。帯の中央は、剣を表しています。ただしこれは刀でなく、神事、奉納用に用いられる物で、万年筆のペン先も兼ねています。ペンと剣、つまり文武両道にかけ力をつける場という意味を含んでいます。 今後、小倉工業の校章は永遠に変わることなく、新しい世紀の歴史を見続けていくことでしょう。 |
私たちは、幾つになっても青年です!
平成21年のからの集いは、こちらをご覧ください
平成20年の集い
平成20年もO氏が予約してくれた淡路町の「佐和」で、12月20日に再会した。今回は、S氏が2年ぶりに参加して、出席者は6名になった。あと一人TK氏が参加すれば全員揃うのだが・・・。
皆いい歳になってきたが、まだ現役で活躍しているのが3人もいる。TA氏は、福島の某大学で教授をしている。O氏は仙台で某会社に勤めている。二人とも単身赴任だ。もう一人のBA氏は、週3日程度に某会社に出勤している。SA氏は、家事に専念しているそうだ。
もう一人若者がいる。 A氏だ。彼は、英会話が得意で、店(飲み屋)に外人さんが来たら、いつも呼び出されるそうだ。また、囲碁(6段)が得意で、香取市長杯で優勝したそうだ。それだけではない、60歳になって某大学に入り、学院を卒業したそうだ。彼の話を聞いていると、何でも努力をしているなと思った。いまさら大学を卒業してなんになる。ということより、大学を卒業したことが立派だと思う。途中で投げ出す人の多い中で・・・。
皆の話を聞き、私は何をしている。ただただ反省するばかりである。仲間が、一人二人と去っていき淋しくなるが、元気の間は一年に1回は再会して語り合えば、気分も晴れてくる。また、来年も会って語り合おう。(右上の写真はスキャナーから読み取り)
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平成19年の集い
平成19年は、12月15日に淡路町の「佐和」で再会した。何時も幹事役のO氏が予約してくる。 この店は土・日曜日は休みだが、O氏の顔で店を開いてくれる。有り難いことだ。 今回の出席者は5名だった。 いつも我々は座敷を使用しているが、たまたま、この日は他の団体客(15人程)が入ったそうで、今日はその団体客に譲って我々はカウンターで宴をすることにした。 また、今回はN氏が参加して、宴は大いに盛り上がった。(写真拡大)
「佐和」の前でA氏 | 右から2番目が幹事役のO氏 |
一番左がN氏 | |
提供:O氏 | 全員で(提供:O氏) |
過去の集いを整理した
(写真拡大) 1998年12月17日 神田須田町の居酒屋で |
1999年2月10日、 神田司町の料亭「阿希ぼ乃」 |
1999年12月8月、銀座8丁目の「志保」で | |
2000年12月18日、有楽町駅前のビル地下にあった「味季」で | |
第一応援歌 篠崎の里 一、篠崎の里に 秋立ちて 七草野辺に 咲き出でぬ いでやあたりの 強物と しのぎを削らん 今此処に 二、見よや鍛えし 黒鉄の 腕によりかけ 球とりて 球戦場裡に 出で立てる 雄々しき勇士 懼れずや 三、 打ち出す球に 霊ありて 高く低く 右左 電光石火の 早業に 驚き開く 敵の陣 |
第二応援歌 虹の旗 一、攻めよはやれよ 我が健児 阿修羅の如く 雄叫びて 花切り乱せ 太刀風に 冴えたる腕を 験すべく 二、冬我が青春の 脈管に 奔走止まぬ 熱血の 選出何此処に 染めなせる 紅の旗 君見ずや 三、荒らし望める 蛟龍の 機を待つなる 呑牛児 昇天の意気 見よや見よ 龍門低く 空高し |
鹿島に行った
2001年3月17日と18日に鹿島に行った。鹿島に住んでいる A兄が案内してくれた。銚子の海岸で、「犬吠崎・ロカ岬友好記念碑」が印象に残った。鹿島での写真は、スライドショー形式した。(写真拡大)
2001年7月3日 | |
外苑前のTEPIAに集合、その後、西新宿の「MaSa」でカラオケを |
年月と場所が分からないが・・・ | |
2006年11月2日、淡路町の「佐和」で |
今のところ、年1回は、再会して、近況を語り合い、明日へのエネルギーを充電している。
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