クラス会 〜すみれクラブ 川中島の戦いの史跡めぐりと上高地散策〜

川中島の戦いの史跡めぐりと上高地散策

                       高地散策
 すみれクラブが、テニス強化合宿と題して旅行をしたのは、 2004年11月のウェルサンピア沼津で、それ以降出かけていない。 2005年7月にヨセミテ国立公園とグランドサークル8日間の旅行はしたが全員が参加していない。
 会費が少し貯まったので、久しぶり強化合宿の話が出たが、今回は、テニスなしの旅行になった。 今、大河ドラマム「風林火山」で川中島古戦場周りが、大変に賑やかである。とのことで、山本勘助の伝説を探り 、信玄・謙信の川中島の戦いの史跡めぐりをする。二日目は、上高地を散策するこになり、2泊3日の旅行となった。スケジュールは次の通り。
6/7 新宿西口バスターミナル(8:50発)→古戦場入口(12:20着)・・昼食・・川中島の戦い史跡めぐり→松代荘(温泉)→保ア宅(宴会)→松代荘(宿泊)
6/8 松代荘(朝食)→長野インター(8:35発)→大正池(10:45着)→上高地バスターミナル(11:06着)・・上高地散策・・上高地バスターミナル(15:30)長野インター(17:30)→公園のベンチ(宴会)→松代荘(宿泊)
6/9 松代荘(朝食)→A・COOP松代店→水野美術館→保ア宅(昼食)→長野インター(14:19)→新宿西口バスターミナル(17:56)・・(解散)

川中島の戦い史跡めぐり

 6月7日:バスは古戦場入り口に12時20分に到着した。先ずは昼食をした。その後、川中島古戦場をぐるりとボランティアの説明をきいた後、 古戦場内ある長野市立博物館で、「風林火山」特別企画展〜体感川中島の戦い2007〜を見学した。 次に大型タクシーで、次の史跡を廻った。胴合橋→山本勘助の墓→妻女山→雨宮の渡し→勘助宮跡地→松代城跡
 史跡めぐりが終わって一度、松代荘に戻って、温泉に浸かり、保ア宅で宴会をした。

MAPで位置関係を見ましょう

 MAPの赤枠をクリックするとリンクします。
naganoMAP08s.jpg 川中島古戦場 山本勘助の墓 胴合橋 勘助宮跡地 雨宮の渡し 妻女山 松代城跡
          (写真の拡大は、こちらをご覧ください。)

先ずは、昼食

 バスは古戦場入り口に12時20分に到着した。保アさんは既に迎えにきていた。すぐ近くの手打ちそば処「横綱」で、横綱のざるそばを食べた。このそばの量がただものではない。注文のとき必ず、 全部食べられますか?と問いただしてくる。
 頑張って全部食べた。そばの腰が強くて美味しかった。
 食べ終わると直ぐに川中島古戦場の史跡めぐりに行った。

川中島古戦場

 上杉謙信と武田信玄は、1553(天文22)年から1564(永禄7)年までの12年間に川中島を中心に5回の戦いを繰り広げた。八幡平史跡公園は、信玄の本陣があった場所で、馬に乗った謙信の太刀を信玄が軍配で防いだという話に基づく一騎打ちの銅像が戦国の時代を物語る。
他にもいろいろあります。こちらを参照してください。
旧社殿(鞘堂)
 欅木の根が入り込んでいるが
ビクトモしない!
大河ドラマ「風林火山」
特別企画展
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胴合橋

 敵に討ち取られた山本勘助の首を奪い返し胴体と つなぎ合わせたところと伝えられる橋。

 詳しい説明は、ここをクリックしてください。
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山本勘助の墓

 第4次川中島の戦いで「キツツキ戦法」の失敗から責任を感じ討ち死にした 武田方軍師山本勘助の墓は信玄が改築し両軍の戦死者を祀った信州柴阿弥陀堂旧境内にある。 この墓は、昔は、南の陣ケ瀬の東、勘助塚にあったが、元文4(1739)年に松代藩鎌原重栄が今の地に移して碑を建てた。 (詳しい説明を見る。)

 タクシーの運転手が、墓を移動する時に墓の石間に蛇が4匹ほど住み着いていたそうです。 今もこの墓に居るそうです。と説明していた。墓を一回りしたところ、本当に居ました。我々が近づくと、石と石の間に入って行った。 本当に墓を守っているのだ。と思った。



勘助の墓

本当に蛇が居た!
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妻女山

 1561年(永禄4年)の第4次川中島の戦いの際の上杉軍の本陣。 眼下には武田軍の拠点、海津城を見下ろし、動きを睨んでいた。

キツツキ戦法とは、
 永禄4年9月9日 武田信玄はキツツキ戦法という戦略を立て、妻女山に陣取る上杉謙信に1万6千の軍勢で山の背後より攻め込み、 驚いて山を下って来た上杉軍を4千5百の兵力でここ八幡原で迎え撃つというと言うそれが世に言うキツツキ戦法。

ここには、展望台がある。ここからは周りが良く見える。詳しい説明見る。
左の丸い屋根がオリンッピクスタジアム(勘助が討ち死にした場所)。
中央が今の千曲川(昔はもっと手前を流れていた)。手前が名産の長いも畑。
左側の白い建物が松代ロイヤルホテル。
その左手前が松代城跡。


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雨宮の渡し

 上杉謙信は敵武田信玄の策略(キツツキ戦法)を事前に察知し、 妻女山の本陣に煌々と大篝火を焚かせて、あたかも未だに夜営しているが如くに偽装させる。 そして、上杉軍は、人馬ともに声なく鞭声粛々とこの雨宮渡を渡り川中島平らに兵を進めた跡。 今は、千曲川の流れも変わってしまい、昔時をしのぶよすがもない。そこで、地元先覚者は惜しみ、 謙信奇襲の川中島合戦を詠んだ頼山陽直筆の碑を建てた。
詳しい説明を見る。
川中島決戦場までの両軍の行進を見る。
碑文を見る



頼山陽の碑

碑文を見る
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勘助宮跡地

 勘助が討ち死にしたとされるこの地に建っている諏訪社(勘助宮跡地)

 詳しい説明を見る。

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松代城跡

 松代城跡(海津城)は、永禄3(1560)年頃、武田信玄が、上杉謙信との決戦に備え、 山本勘助に命じて築かせた城。その後、城主の交代があったが、1622(元和8)年に真田信之が上田城から移って以来、 真田10代が城主として続いた。昭和56年国史跡にしていされいる。現在は、城門・石垣なども復元され、往時をほうふつさせる姿によみがえっている。我々は、ここは、タクシーから望むことにした。
詳しくはこちらを参照してください。
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保ア宅で宴会

 川中島の戦いを一通り見聞した後、一度松代荘にチェックインして、温泉に入った後、保ア宅で宴会をした。前以てジャンボ鮨を予約していた。私はにぎりを注文していた。日本酒が美味かった。宴会が終わる松代荘に戻って、再度温泉に入って寝た。明日は、上高地散策だ。
芝生が見事!バラも綺麗! 先ずは、ビールで乾杯!

         (写真の拡大は、こちらをご覧ください。)

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