寄稿 〜飛田さんのエッセイ「土産話」の紹介〜

飛田さんのエッセイ

土産話

                          飛田 良
「越中富山の薬売り」は、江戸時代初期の元禄のころから、各地の城下町や村々を廻って「熊の胆」など家庭の常備薬を売り歩いた行商人である。物の流通が乏しい時代に、人びとに大いに重宝がられたが、もう一つ人びとに喜ばれたのが、薬売りの世間話であった。世の中の情報に飢えていた人々は、薬売りが持ってくる各地の作物の出来具合などの土産話を楽しみにしていた。

 土産話といえば、つい三十年ほど前、私が海外営業を担当した頃でも、現地の駐在員たちは、東京からの出張者の話を待ちわびていた。当時、国際電話は交換手に頼んでもなかなか繋がらず、インターネットなど蔭も形もない時代である。
 ある国で、乗り継ぎの飛行機を待つ合間を利用して駐在員の自宅で仕事の打ち合わせをした。奥さんが茶菓でもてなしてくれたが、私は駐在員と仕事上の話だけをして帰った。あとで駐在員から、奥さんが「少しは東京の話を聞けるかと楽しみにしていたのに・・」と、がっかりしていたと聞かされた。以後、私は出張先で努めて土産話をするように心がけた。

 当時、共産諸国の一員であったブルガリアの首都ソフィアに、駐在員が数人いた。その頃のソフィアは、おおよそ物が乏しく、特に日本の食材や調味料などは皆無であった。駐在員たちは、月に一回、交代で隣国オーストリアのウイーンに出かけ、必要な食材や調味料などを買っていた。会社も、この買出しを出張扱いにした。また、日本への国際電話は、ソフィアからフランクフルト経由でKDDに繋がっていたが、申し込んでから約二時間で繋がれば「御の字」という不便さであった。日本の主要な新聞は数日の遅れで届いたが、検閲により、共産諸国にとって都合の悪い記事は切り取られていた。

 ある年の夏、ソフィアに出張した。土産は、現地で手に入らない、日本酒、魚の干物、かまぼこ、漬物などである。着いた日の夕方、全員が駐在員事務所に集まって、久しぶりの日本の味を喜んでくれた。
 私は、東京の様子などをこまごまと話し、彼らの問にも熱心に答えて座が盛り上がった。傍らに、数日遅れで届いた新聞があった。そこに全国高校野球大会の二回戦か三回戦の記事があった。
私が羽田を発った日は、既に決勝戦にまで進んでいた。私が何気なく、「今年の決勝戦は、A校とB校だよ」と話した。途端に座が一気に白けて静まり返った。皆は、数日遅れの新聞の記事を頼りに、甲子園で活躍する故郷の代表校や、贔屓の高校を応援し、一喜一憂しながら楽しんでいたのだ。私の不用意な土産話が、その楽しみを一瞬のうちに奪ってしまったのである。
 まさしく「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」であった。
                   (2002年の作品)
 
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